S600の1号機の顛末記
1982年4月。taaこと私、そしてpoo、KEIZOの3人は大学生でした。そして、私の友人から「S600買わへんか?」と言う誘いにのったのでした。不動車を30万円で。必死でバイトして、各々10万円の出資でS600に乗る夢を買ったのでした。
ところがこの後に、この車は数奇な運命をたどる事になります。今回は昔のS6日記を基に書き進めたいと思います。
| 1982年 4月17日
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この日が初対面となる。自動車屋の片隅に、アコード純正シルバーに塗られたSが待っていた。この時点で既に検切れ、不動。聞くと、クーラント漏れとブレーキ抜けしているそうだった。 観察すると、トランク内には水が溜まり、右フェンダーに擦り跡が見られる。 |
| 5月 8 日
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陸送を決行。牽引と言う当初の予定は、ブレーキ抜けで断念。最寄りのスタンドまで牽引の後、エルフの荷台に載せる。この時の運転は、taaがエルフ。pooがSであった。 向かう先はホンダベルノ。pooの交渉により、置き場として確保してあったのだ。 |
| 6月13日
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ホンダベルノにて、エンジンを降ろす。エンジンは知り合いのバイクショップへOHのため運ぶ。今思えば、これが間違いの元であった…。 |
| 第1回氷河期
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万年金欠の学生(今も金はない)と言う身分で作業は進まず、約1年後にベルノを追い出され、ボディーはtaaの父の工場へ。エンジンはバイクショップの倉庫で埃を被ることとなる。 この間、幾多の買い手が現れたが、我々は「絶対に手放さない。何年掛かっても乗ってみせる」と言う堅い誓いをたてた。 しかし、時は無情に5年の歳月を刻んだのであった。 上の写真と比較すれば、ヤレ具合は一目瞭然である。 |
| 1987年 3月29日 |
ひょんな事から、バイク仲間のkinzo氏が仲間に加わる。この時taaは、既に1児の父となっていた kinzo氏の口利きにより、ガレージ建設地と古いアルミガレージの提供を受けたのだ。但し、ガレージは別の場所から撤去して持ってくると言う条件付きではあったが、 我々はこの日喜び勇んでエルフに飛び乗り、ガレージを持って帰ってきた。 |
| 6月28日
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この日までに約6回の作業を経て、ガレージが完成した。真夏に慣れぬ土木作業はきつかった。 |
| 9月27日
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いよいよ車の搬入である。エルフの荷台に載せてガレージへと納めたのだ。これで落ち着いて作業が再開出来る、とこの時は思った。 |
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ここから1年間、錆びたボルトと格闘しながら分解作業にいそしんだ。 最終的にはボディーがフレームから降りるところまで作業は進んだ。 が、5年間の雨ざらしは、ボディーを再起不能にまで腐らしていた。 |
| 第2回氷河期 | メンバーが、結婚、子供誕生と、どんどん生活が変化して徐々に作業のペースは落ちていった。 それでも細々と作業は続けていたが、1989年に無情にも土地所有者より立ち退きの勧告を受けてしまう。宿無しに逆戻りである。 |
| 1990年 1月21日 |
寒風吹き荒む中、我らがS600はトラックの荷台に載って、元の位置に逆戻りとなる。 |
| 1994年 11月27日 |
工場の移転に伴い、S600も移動。この4年間は何もしていないが、夢だけが空回り…。 |
| 正確な日付わからず | その後、名古屋の部品交換会でボディーの売り物を発見。 岐阜県郡上八幡まで取りに行く。(写真なし) |
予備のボディー 工場内に3Fを自作し保管




元の車は、屋外ながら屋根下保管。
| 2000年3月3日 | 中国地方の納屋から、昭和39年式初期型S600オープンを発掘。オリジナルのパーツを良く保っており、内張には一部ビニールが掛かっている状態であった。poo氏と相談の結果、購入する。 1号機は場所とお金に困り、売りに出すこととなる。 |
| 2000年11月20日
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リンクサイトのHPA氏の口添えで関東への嫁入りが決まる。 ローダーで取りに来られる為の準備を行う。10数年ぶりに自分の足で立った1号機。涙ものである。が、実体は土に還る直前である。 エンジンはクランキングできたので、少し安心した。 2段に積めるよう、やぐらを組む。 |
| 2000年11月21日
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お別れの前日。結局やぐらは使わずに、直接2台積みとなる。 新オーナーの「大変失礼だけと゛、直接2台積みする」という一言に胸を打たれる。この人なら1号機を託しても大丈夫だと。 そして夜は祇園へ。せめてもの感謝の気持ちだった。 |
| 2000年11月22日
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ついにお別れ。18年間夢をありがとう! その夢は、しっかりと2号機に受け継がれるだろう。 |